どうして自分は練習しない子だったか

そんなに人並み外れてはっきりと覚えているわけではありませんが、私は、幼稚園児ぐらいに何があったか、そのときどういう気持ちだったかを、割と多く覚えている気がします。

 

上履きを忘れて、おままごと用の窓枠(わりと大きい)に腰掛け、白い靴下が汚れるのが嫌で、母親が上履きを届けてくれるまでずっとそこで足をぷらぷらさせていた惨めな気持ち、とか。

クリスマス会でサンタの服と白いつけ髭をした先生に向かって、みんなで『〇〇先生だ!』『サンタの偽物だ!』と可愛くない野次を飛ばした、とか。

誰が触ったやらわからない、共用おもちゃのあの不衛生な感じの感触。水飲み場の石の、なんとも言えないひんやり感、などなど。

 

音楽以外のことももちろんたくさん思い出せるのですが、今回は、時代を幼稚園に通っていた頃に絞って、その頃どのように音楽教室に自分が向き合っていたかを思い出してみます。

今現在、音楽教室に通っている幼稚園くらいのお子さんがいる方に、ほんの少しでも参考になれば嬉しいです。

 

 

とにかく練習でイライラする

 

 

私の性格的な傾向として、『できて当然』と思って挑むようなふしが、昔からあるみたいです。

音楽でもゲームでも、『できないこと』が発生すると、途端に癇癪モードに突入してしまいます。

 

初見演奏の『し』の字も分かっていないような幼稚園児が、初めて見る・弾く曲を一瞬で完璧に弾けるようになる訳がありません。

なのに私は、(片手ずつ、とかテンポをなるたけゆっくりやれば良いものを)いきなり両手で一気に弾こうとして、それが自分の描く理想の状態とはかけ離れていて、すぐに癇癪を起こしていました。

 

そしてそのときに何が起こるのかというと、部屋の中にある、ありとあらゆるものが、自分のことをバカにしているんじゃないか、という気持ちになるんです。

ぬいぐるみや、毛布に描かれたクマの模様、模様すらない布切れですら、上手に弾くことができない自分を嘲笑っているかのように見えて、それらに対し、怒り散らしていました。

 

つっかえる、間違える。『できないの連続』が最高にストレスで、それで練習が嫌いでした。

これが、練習が嫌いだった一番の理由です。

 

 

お手本に囲まれて

 

 

今思うと、これはもしかしたら身の回りに『完成されたお手本』しか転がっていなかったから、そのイメージだけが頭の中で出来上がってしまって、不完全な状態が許せなかったのかもしれません。

教材CDや、先生が弾くお手本はもちろん完璧ですし、ちゃんと一週間練習をしてきたレッスン仲間の演奏は、もちろんある程度完成されたものです。

そしたら当時の私は、その完璧な状態が目の前に突如として現れるもの、と勘違いしてしまっていたのかもしれません。

 

片手ずつ、1フレーズずつ、ゆっくり。これらの過程は、なかなか目にかかることがないものです。それこそ自分でそういう練習をやって初めて、知るものです。

これはどうしたものでしょうか。

 

誰もが最初は、へたくそで、つっかえながら弾いていて、曲とは言えないようなテンポで練習をしている。

この事実を知るようになるまでに、随分と時間がかかった気がします。

 

 

練習以外の楽しいこと

 

 

そんなイライラしてばかりの練習ですから、もちろん他のもっとすぐに楽しくなれることをやりたくなってしまうのは当然のことです。

いつの世の子供達も、ゲームが大好きです。ゲームが上手ければ、一人でやっても楽しい、友達からも尊敬される、まさにいい事づくしです。

毎日のように、『ゲームやっていい?』『練習したらね』という会話がなされるのがお約束でした。

 

家族揃ってインドア派だったので、外へ遊びにいくよりも、この『ゲーム』というのが、まさに『練習』の対極にありました。

では、当時どのような取引がなされていたかというと、『1時間練習したら30分ゲームをやってもよし』というものです。

やってもイライラするばかりでちっとも楽しくない練習を必死で1時間やって、電源をつけた瞬間から楽しさ100%のゲームが30分できる。この取引には、ちっとも魅力を感じませんでした。

親の目を盗んででもゲームをやるのは、もはや当然の成り行きです。

 

ではゲームと出会っていなければ幸せだったのかというと、きっとそういう事じゃない、と言い切ることができます。

ゲームみたいな楽しくてしょうがないこととセットになっていたから、なんとか辞めずに音楽を続けることができたからです。

これが、苦しくて楽しくない練習のみが生活の全てだったらと思うと、恐ろしいです。

 

1番の理想は、練習だけを毎日積み重ねて、どんどん上達することかもしれません。でも、すべての子が練習の天才ではないのです。

もちろん練習の天才ではなくても、音楽と楽しく人生を共にすることはできます。

2番目の理想は、練習と、その苦しさを打ち消すような楽しい何かをセットにして、なんとか練習の楽しさを発見するまでは、それで頑張っていくこと。

なかなかバランスを取るのが難しいですが、私はこれで踏ん張るのが得策かと思います。

 

 

練習の意義を見出す

 

 

練習が楽しいものだ、とまでは行かずとも、有意義なものだと気づくまでには、やはりそれなりの経験が必要です。

一番は、音楽の力がどうこうよりも、主にこの二つの能力が備わったかどうかが重要です。

 

『想像力』

これをやったら、こうなる。やらなかったら、こうなる。簡単な未来を予測する力です。様々な経験が積み重なることにより、だんだんと物事の予想がつくようになります。

こういう練習をすれば→これができるようになる。この後半部分がわかってなければ、メリットもわからないまま苦痛に耐えることになってしまい、それはまるで終わりのない迷路を歩いているのと同じことです。

あらゆることの『想像』ができるようになれば、練習の意義をみいだす大きな手がかりになります。もう一つは、

 

『我慢』

いわずもがな。いくらメリットが予測できていたとしても、その困難に耐えうるだけの忍耐力は、やはり必要です。

これも、あらゆる場所で、あらゆる人間を相手に、いろんな経験を積み重ねてこそ、得られる力です。

できないことを、できるようになるには、手をかえ品をかえ、視点をあちこちに変えてみたり、柔軟な考え方で根気よく向き合う必要があります。

 

 

この2つの力は、部屋にこもって一人で鍵盤に向かっているだけの毎日では、決して手に入れることはできません。

ときに理不尽な人間関係、予測不能の事態、目新しい物事との出会い。様々な場面を経験してこそ、備わるものです。

 

 

音楽は音楽だけじゃない

 

 

このように、音楽をやっているようで、実は人生のいろんな要素を試されているのが、練習というものです。

生まれてからまだ数年の子供に、練習がどれほど難しいものかは、想像がつくと思います。

 

音楽以外のこと。

友達と遊ぶ、話す、関わる。人と出会う。物語を知る。問題を解決する。何かを繰り返す。ありとあらゆる手段でもって、音楽の力は育っていきます。

人生のいろんな経験をして、ふと音楽に戻ってきてみたら、新しい発見があった、というような具合です。

 

音楽は人生のパートナーですから、出会って最初の数年をのんびり付き合ったところで、どこかへ逃げて行ったりしません。長い永いお付き合いです。

『音楽と人生を通して良き友となる』ために、あせりは禁物です。

ぜひ、長い目で、のんびり。人生のいろんな経験をしながら、音楽と触れ合ってみてください。

練習が苦痛で仕方なかった日々が、いつか懐かしくなります。

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