『勉強しなさい』
『宿題しなさい』
これらの代わりに私が言われたのは、『練習しなさい』でした。
このどの言葉にも共通しているのが、言われれば言われるほど嫌になる、ということです。(もともと毛ほどもない)やる気はさらに削がれ、腰はさらに重くなり、ましてやこれを言われてから作業に取りかかるのは、もはや負けを認める行為とすら感じてしまいます。
練習をすれば、どんないいことがあるか。
これがわかるようになるまでは、練習と本当の意味で向き合うことは、難しいでしょう。
なので、小さい子には、発表の場が不可欠です。発表会、コンサート、コンクール。人前に放り出され、演奏しなけらばならないという逃げ場のない目的がもたらされることにより、初めて意味のある練習に取りかかることができます。
とはいえ、この本番に向けての練習というのは、いわば本番で失敗をしない、恥をかかないための練習。あるいは、優れた演奏をすることによって大人たちから褒められるための練習です。
そういったもののための練習というのは、わかりやすい反面、一時的なものに過ぎません。本番が終わってしまえば、また目的も意味も持たない、つまらなく苦しいだけの練習しか残らないので、元の木阿弥です。
こんな弾きたくもない曲が弾けるようになったところで、一体何になるのか。次のレッスンで先生に怒られないために練習して、一体何が楽しいのか。
あの頃の私は、ただシステムに組み込まれて毎週、毎年を過ごしていただけのように思えます。
もちろん、そのおかげで積み重なった音楽の基礎的な知識や感覚、技術などはたくさんあり、あの年齢でシステムに組み込まれて、その恩恵を存分に受けられてよかったと、今になっては思っています。
ただ、今も同じように、何とか毎週のレッスンをしのいで、しのいで、苦しみながら音楽をやっている子がどこかにいて、もしそれに耐えられなくて音楽をやめてしまったら、それはとても悲しいことだと。そう思いました。
なので、音楽が一番苦しかったあの頃の私に向けて、どんな言葉がかけられるか。それを今回は考えてみました。
音楽が一番苦しいと感じていたのは、小学校低学年~中学年の頃でした。
もちろん思い出せば、楽しいことがほとんどです。グループレッスンを受けていたので、そこでしか会えない友達と過ごす時間は特別に楽しいものでしたし、コンクールでよい演奏をして、先生や親から褒めてもらえて、自分なりに充実した生活を送っていたように思えます。
ただ、それだけなんです。
友達と会えて嬉しい。褒められて嬉しい。怒られずに済んで嬉しい。
音楽とは一切、何の関係もありません。
音楽と触れ合っている喜び、実感、そういうものを一番感じていなければいけないのに。それがないと、本当の練習なんてできませんから。
小さかったから、幼かったから、というのは理由になりません。どんなに幼い子でも、音楽との絆を感じることは可能だからです。それが、私にはなかった。(音大に入ってからですら、『自分には音楽がなくったって何ともない』と思っていました。)
では、当時の私がすべきことは何だったのか。
他人の中にではなく、自分の中に音楽を見つけるべきだったのです。
友達がいるから。誰かが褒めてくれるから。やらなかったら誰かに怒られるから。誰かに聴いてもらえて、ちやほやされるから。これらは全て他人発信の音楽です。
自分が。
自分がこんな演奏をしたい。自分がこんな音を出してみたい。自分がこんな世界を表現したい。
そう思って音楽に触れるべきだったんです。(でなければ、やめてしまえ!と言いたいところですが、冒頭でも述べた通り、わけも解らずやっていてよかったこともあるので、そこまでは言えません。)
でもそれって、大人でも難しいことだと思います。一人で部屋で演奏していても、モチベーションにつながらず、YouTubeだったりFacebookだったりで、誰かに構ってもらいながら、そうやって練習する人も多いですから。(自分発信100%が正義と言っているわけではありません。自分・他人、割合はどうであれ、それで有益な練習ができているのなら、とてもよいことでしょう。)
とかく、ひたすら自分の中から音楽が溢れ出している人は素敵です。
では、そんな大人でも難しいことを、どうやって幼い子供ができるのか。少し考えれば、何も難しいことじゃありません。キーワードは『憧れ』です。
『憧れ』は、一見他人を原動力としているようですが、これは立派な自分から出ているエネルギーのように思えます。
殊に音楽は。あの人のような音楽を生み出したい。そうなれば、あの人がその後、どう衰退しようと、たとえ死んでこの世からいなくなろうと、生まれた音楽そのものは変わらないからです。
憧れの対象さえ変わらずそこにあれば、あとは自分の努力になります。あの人に近づくために、もっと練習しなくてはいけない、と。
ここで最初に戻るんです。
あの人のような、こんな音楽を、世界を表現したい。
→ そのために、この曲のこの部分の要素を自分の中に取り込みたい。
→ だからこの曲を弾けるように、自分から湧き出るような演奏ができるようになりたい。
これで、初めてまっとうな曲の練習ができます。
当時の私と、そして今まさに毎週のレッスンに追われて、音楽を見失いかけている方々へのメッセージがこれです。
『圧倒的な憧れを持てる、そんな音楽と出会うための努力をしてください。ただ何となく好きだな、とか心地よいな、ではなく、心が熱くなるような、居ても立っても居られないほどの音楽です。』
そして、練習をするとどんな良いことがあるかという答えは、これです。
『憧れの音楽に近づき、越えるための一歩になる。』
そうやっていくうちに、いつしか自分の中に憧れが生まれてきます。あの人の音楽、あの人の世界、ではなく、自分の音楽、自分の世界の真理に近づきたいという、そういう考えです。
ぜひ一度、他人発信(誰かからこう言われたい)の練習ではなく、自分発信(自分がこうなりたい)の練習ということを意識してみてください。練習の捉え方がだいぶ変わるかと思います。