子供の頃に怖くないと思ったものは、大人になってからも怖くない。
子供の頃に怖いと思ってしまったものは、大人になってからも怖いのかもしれない。
というお話です。
はじめての『ムシとり』
子供の頃にムシとりというものを体験したことが1度もなかったので、大人になってからムシとりを初めてやったときは、そのあまりの楽しさに心が踊りました。
けして虫が得意なわけではないのですが、生き物を間近で感じられる喜びと、自由度の高すぎるUFO キャッチャーのようなアミューズメント感が、たまらなく楽しかったです。
そんなわけで、とある初夏のその日も、年甲斐もなく虫かごと虫捕り網をもって、旦那さんと一緒にムシとりへでかけました。
なんの変哲もない近所の公園が、網とカゴを装備しただけで立派なテーマパークになってしまうのです。
ちょうちょ、セミ、とんぼ、種類のよくわからないちいさな虫。
この日初めてスズメガというものを見て、捕まえたのですが、ドクケイルの元ネタがどうやらこのスズメガだったみたいでして、とても形が似てました。
そしてアゲハチョウもつかまえたので、アゲハントとドクケイルの両方が揃ったということで、非常に楽しい気持ちになりました。
虫が得意ではない私でも、網越しならなんとか虫をカゴへ入れることができます。
ですが、やはり現役世代には敵わないなという出来事が、とある公園でおこりました。
公園の女の子
セミの声が鳴り響く公園でのできごと。
ゲームの『どうぶつの森』よろしく、どうぞ捕まえてくださいと言わんばかりにセミが木のちょうどよい高さにとまっていました。
ところがどっこい、網を空振り。セミを捕まえ損ねてしまったのです。なんとセンスのないことだろうか、と自分でもビックリしてしまいました。
すると、隣で遊んでいた小さい女の子がそんな私を見かねて、わしづかみにしたセミをプレゼントしてくれました。
女の子は、セミをわしづかんだその手で、ぽりぽりとポッキーを食べていました。あまりの頼もしさに、私は感服してしまいました。
大人になるにつれ、いろんな感覚が育っていきます。大切で必要な感覚もあれば、邪魔で不必要な感覚もあります。
セミをこわいと思ってしまう感覚。
食べ物を素手でつかむとき、いったん考える感覚。
これらははたして必要な感覚でしょうか?それとも不必要な感覚でしょうか。
『はじめて』の印象って大きい
ヤマハに通っている子たちの大部分は、グレード試験を受ける過程で、即興演奏とのはじめての出会いを果たします。
つまり、即興演奏は、試験を通過するための受験勉強として組み込まれているのです。
本来、即興演奏にセンスのある・ないはあったとしても、正解・不正解はないはずです。
それを、正解・不正解の基準をたくさんもうけられ、せまいルールのなかで、他人に是か非かを決められてしまう。
こんな出会いでは、ほとんど誰しもが『即興演奏はこわいもの』という感覚を育んでしまうと思います。
もし、こどもがムシとりと初めて出会うとき、その捕まえ方、捕まえる虫の種類などで是か非かを決定付けられてしまったとしたら、ムシとりなんか嫌いになってしまうでしょう。
即興演奏に、もう一度出会う
では、もうすでに即興演奏とのはじめての出会いをこのような形ではたしてしまっている人は、これからずっと恐怖心を持ったままなのでしょうか。
そんなことはありません。
これまでの即興は、あくまで試験勉強。
これからやる即興は、ひとつのライフスタイル。
のように、切り離して考えてしまいましょう。
なんだか、英語という科目に似ている気がします。
私はあまり熱心に勉強をしなかったので、踏み込んだことは言えませんが、受験勉強の科目としての『英語』と、実際のコミュニケーションに必要な『英語』って根本が違いますよね。
もう一度まったく新しいものとして即興演奏に出会うことができれば、大人になってからでも、即興演奏にガンガンチャレンジしていけるのではないでしょうか。